2012/1/13
●「『結果を出さなかったら終わり』。京都のころは自分を追い込んでいた」
--プロ生活の10年を振り返ってみていかがですか?
「いろいろな経験を積ませてもらったし、(浦和に)入ったばかりのころは全然試合にも出られなくて、もう一度基礎からやり直して、はい上がるのに精一杯の日々でした。浦和から京都に移籍してからはチャンスを与えてもらって、試合に出るという経験を積ませてもらいました。でも、それ以降は必ずしも試合に出られる日々が続いたわけではなく、けがに苦しんだりもしました。ただ、サッカーを通じてこの10年間、人間的に成長させてもらいました」
--そもそもサッカーを始めたきっかけは?
「チームに入ったのは小学3年生のときで、地元の少年団のチームに入ったのが初めて。四つ上の兄(三上和良。神戸、大宮などでプレー)がサッカーをやっているのをいつも見ていました。兄は僕にとっては常に追いかける存在で、兄の背中を見ながらサッカーをしていたような気がします。兄がプロまで行ってくれたので、自分も頑張ればプロでやっていけるのではないかと思えました」
--武南高、駒沢大を経て地元の浦和に加入します。
「浦和は自分が生まれ育った街ですし、大学を卒業するまで生活していた場所なので、地元でプレーできる喜びやありがたみは大きかった。自分を育ててくださった方々にプレーする姿を見ていただくことで、恩を返せる機会にもなると思っていました。でも、プロの世界は厳しく、まずは試合に出たいという気持ちが強かった」
--デビュー戦は02年の天皇杯・福岡戦でした。初めてプロのピッチに立ったときの気持ちは?
「最初の10分くらいは全然覚えていないですよ(笑)。もう頭の中が真っ白で、緊張もしていましたし、ピッチでレッズの熱狂的な応援を肌で感じるというのも初めてなわけだし、そのサポーターの声で周りの声も聞こえなくなっちゃって。冷静になっていなかったぶん、最初は狭い視野の中でしかプレーできていなかった。試合には負けてしまったのですが、自分としてはその試合である程度自分のプレーが出せたので、自信は付きました。プロとしての第一歩をやっと踏み出せたのかなと。自分にとっては大きな意味のある試合になりました」
--しかし、出場機会に恵まれず04年途中に京都に移籍を決めました。
「『ここで結果を出さなかったら終わり』と、自分で追い込んでいたところがありました。そうした状況である程度の結果は残せた。それは自信になったし、新たな経験として自分の糧になりました。試合に出て、結果を残すということに喜びも感じていました。活躍すれば、そのぶん評価してくれますし、それが形になったのはうれしかった」
--当時、三上選手と美尾(敦/現・鳥取)選手らのコンビプレーから生まれる左サイドからの攻撃は京都の大きなオプションでしたね。
「僕が京都でプレーしているときは田原(豊/現・横浜FC)選手のようにヘディングの強い選手とか、ゴール前に飛び込んでくるような選手がいたので、クロスを上げやすかった。中を見れば(選手が)見えるので、すごくイメージが湧きました」
--その後、08年に愛媛に加入しました。
「浦和や京都でプレーしていたときというのは、周りがすごく助けてくれたりとかして、お膳立てをしてもらっていたけど、愛媛に来てからは環境も含めて、自分で考えて、自分でいろいろな選択肢を作ることが必要とされました。あらためてサッカーというものを考えさせられたし、サッカーの見方もちょっと変わりました」
--09年にはキャプテンも任されました。
「少年団で何となくキャプテンのようなことをしたことはありましたが、チームの中でハッキリとした形で任されるのは初めての経験でした。望月一仁監督(当時)から電話で、『キャプテンをやってくれないか』って。最初はできるわけがないと思いましたよ(笑)。やったこともないし、そういうことは考えもしなかったから」
--それまで在籍した中で一緒にプレーしたキャプテンをお手本にしたりしたのですか?
「いろいろなキャプテンがいると思うのですが、当時、僕もこのチームでは歳が上のほうだったし、若い選手だったり、経験の浅い選手が多くいたので、プレーというよりは、チームに落ち着きをもたらすということを考えてやっていた。そういう面では(07年に京都で一緒にプレーした)森岡(隆三)さんなどは代表でもキャプテンを務めていたし、チームが難しい状況のときでも必ず何らかの答えを持っていた人で、そういう人と一緒にプレーして、話を聞いたことを思い起こしながらやっていました」
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