2012/1/17
●「『絶対にこの場所へ戻る』と、自分に言い聞かせていた」
--2010年限りで草津との契約が満了し、2011年の1年間の浪人生活を経て昨年11月下旬に現役引退を決心しました。いまの心境は?
「実は、2010シーズン限りで草津を戦力外になったときに、一度は辞めようと思ったのですが、気持ちの整理がつかなくて浪人生活を選択しました。この1年間は、いろいろな経験をして挫折も味わったので、いまはスッキリした気持ちです。1年間の心境と比較したらかなり前向きで、第二の人生に向かって『さあ、行こう!』っていう感じです。いま振り返ると、つらかった浪人生活が無駄ではなかったと思っています」
--最終的に引退を決めたのはいつですか?
「11月中旬です。最初は(12月13日の)トライアウトを一つの区切りとして考えていたのですが、自分の中で自分らしいプレーができないという葛藤があって、ずっとそのことに悩んでトレーニングをしていました。以前であれば前からのプレスで3回くらいチェイスをしに行って、そこからゴール前へ飛び込むことができていたのですが、一度ピッチを離れたら体力的に2回も追えなくなっていて。それができなくなったと感じたときに辞めようと思いました」
--決断への心残りはありますか?
「最初はもちろん、悲しいというか寂しさはありました。それまではクラブに所属していなくても“サッカー選手”という肩書きがあったのですが、それがなくなって自分に何ができるのか本当に考えたし悩みました。いま思うと、サッカーもセカンドキャリアもその両方でゴールが見えていなかった。でも家族や関係者に伝えた翌日には、『家族のためにやるしかない』と思ったし、気持ちを切り替えて前向きになることができました」
--浪人生活の難しさは?
「クラブに所属しているのであれば、公式戦があったりテストマッチがあったりするのでそれを短いスパンの目標として頑張ることができるけど、浪人の場合は目標を設定することが難しかった。ゴールが見えない中で常に自分自身との戦いでした。プロレベルから離れることで、メンタル的にもどんどん不安になっていきました」
--ほかのクラブからの誘いはなかったのですか?
「昨年(2011年)の春先にはいくつかのクラブから練習参加やテストの声をかけてもらいました。でも、一昨年(2010年)のシーズンの最後に右ひざのけがを押してゲームに出続けてしまって、それが完治していなかったので参加できませんでした。その後もいくつかのクラブから声をかけてもらったのですが、タイミングやコンディションが合わずにうまく進みませんでした。クラブにいればトレーナーがいて管理してもらえますが、それもなかったのでトレーニングもうまくできなかったと思います」
--浪人中は、どんな場所で練習をしていたのですか?
「自分はユース出身ということもあって、高校や大学の母校というのがなかったので練習させてもらえる場所がまったくありませんでした。だから最初は自宅の近くの公園をひたすら走りました。でも周囲に誰もいない中、一人で走っていると、どんどん気持ちが落ちてきて『ダメだ、ダメだ』という心理になってしまいました。自分自身の弱さもあるけど、やっぱりサッカーは個人競技ではなくチームスポーツだと実感しました」
--2011年の春からは大学の練習に参加したと聞いて
います。
「コンディションが上がっていくにつれてボールを蹴りたくなってきました。でもボールを蹴る相手もいないので本当に困りました。そこでザスパの植木GM(植木繁晴元・草津監督、現・代表取締役GM)に相談したら、群馬県にある上武大学に連絡を取ってくださって、大学の練習に参加できることになりました。最初は受け入れてもらえるのか心配で不安がありましたが、大学生たちが僕にいろいろなことを聞いてきてくれて、サッカー選手としてのアイデンティティーみたいなものを思い出させてくれました」
--メンタルもつらかったのではないですか?
「メンタルがつらいときは、家族が寝た後に現役時代の試合の映像を見て気持ちを奮い立たせていました。本当は余計につらくなる部分もあるのですが、2010シーズンに戦力外を伝えられた後の4試合を無理やり見ていました。横浜FC戦(10年11月28日・J2第37節、1○0)の泥臭いゴールとかを見て、『絶対にこの場所へ戻る』と、自分に言い聞かせていました」
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