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[1109号]EGちょい出し:高校選手権インタビュー樋口士郎監督(四日市中央工) いまこそ分かった“国立”の重み/ 聞き手・安藤隆人()

2012/1/20

●「力を出し切った大会だった」
--まず選手権を終えてみて、率直な気持ちを。
「選手たちは100%以上の力を出してくれた。本当によく頑張ってくれました。それが率直な印象です。主将の國吉祐介が決勝に出られなくとも、3年生の生川雄大が不在を感じさせないくらいのパフォーマンスを見せてくれた。(準優勝が決まったときも)正直、よくやったという気持ちのほうが強かったですね。まだしっかり分析していないのですが、実感としては目前で逃したというより、力を出し切った印象があります。それに、立命館宇治との3回戦も、中京大中京との準々決勝も、ロスタイムに追い付いてのPK勝ちという形でした。これまで僕が率いてきたチームでは、ギリギリのところで追い付いて勝つという部分がなかなかなかった。最後まであきらめない姿勢、メンタル的な強さを感じました。サッカーの質という点でも僕らが意図していることを国立で披露してくれた。僕としては非常に満足しています」

--それは突然変異で起こったのか、それとも狙いどおりだったんでしょうか?
「僕のスタンスは就任当初からずっと変わっていません。ただ、選手の特長はありますよね。今年は攻撃的な良さを出せる選手、点を取れる選手が多くいた。それが大きかった。その攻撃陣を、守備陣が國吉を中心に支えていた。ここのバランスが非常に良かったと思います」

--監督となられて初めての国立でした。
「やっぱり階段を登っていくときは、『おお〜』という感慨はありました。やはり雰囲気は、すごかったですね」

--選手のときの国立とは違いますか?
「選手のときは一生懸命やるしかないですから。それに監督なので、尚志相手にどう戦うかで頭がいっぱいでしたから、試合に集中していました。舞い上がってはいませんでしたね。今回は特に相手を分析して試合に臨むサイクルが出来あがっていたので、国立どうこうよりも対戦相手のことを考えていました」

--コーチ時代の国立とも違いますか?
「もちろん。コーチ時代は本当に気がラクでした。城(雄士)先生がいるので、僕に責任はなかった。練習は僕がずっと見ていたので、僕のトレーニングを1年間やってきて、小倉(隆史)たちがいるこのチームで全国優勝できなかったら--というプレッシャーは少しありました(※)。でも、最終責任は監督ですからね(笑)」

※1991年度に行われた第70回大会のこと。この年の四中工は小倉を筆頭に中西栄輔、中田一三、水原大樹など、のちのJリーガーがズラリとそろったタレント集団で、優勝候補と見なされていた。決勝では松波正信らを擁した帝京と死闘になり、2-2の引き分け。両校優勝となった。

「先生の実績がのしかかった」

--樋口監督にとって、前監督の城先生の存在は大きかったと思います。ようやく恩師と肩を並べたなという実感はありますか?
「肩を並べたというより、今までのしかかっていたすべての肩の荷が下りた気分ですね。特に国立の準決勝へ進出を決めたときは、特に…」

--城前監督はどのような存在だったのですか?
「選手のときの城先生は当時当たり前だったスパルタ指導ではなくて、選手をノビノビとプレーさせることを追求されていて、その力に長けていた方です。選手の特長を見抜いて、『よし、頑張れよ!』と自然な感じで接してくれるんです」

--その後、コーチとして城先生の下で過ごし、監督というバトンを受け取りました。
「実を言うと、監督就任は僕から言いに行ったんです。コーチ時代から城先生の個性を伸ばす指導、ノビノビとプレーさせる環境づくりを勉強しながら、『自分だったらどうするか』を考えていたんです。それで監督をやりたいと思うようになりました。小倉たちと優勝した年の3年後ですね。萩村(滋則。元・柏など)の代で、選手権出場が決まったあとの11月でした。城先生の家に行って、『城先生、監督をやらせてください』と言ったんです。もう心臓が張り裂けそうでしたけど、直談判したんです。そうしたら城先生が、『おう、そんなん前々から考えとったわ。ええぞ』と言っていただいた。城先生はその年に四日市工に教頭として転勤されることになり、僕が監督に就任したんです」

--監督になられてからはいかがでしたか?
「監督に就任した年、僕は教育委員会の派遣で4月から半年間ブラジルに行ったんです。4月から10月の間は代わりの人に監督をやってもらいました。それでブラジルから戻って来てチームを見たとき、僕は簡単に物事を考えていましたね。『高校サッカーはこうやってこうやったら勝てるんだ』と思っていた。それはとんでもない勘違いでした。10月に帰ってきて、直後の選手権予選準決勝で上野工に負けたんです。それまで10年連続で選手権に出ていて、自分が就任して1年目に負けた。『もうこれはまずいぞ…』って焦りましたね(笑)。周りは最初から『城先生から代わったから負けたんだ』と言いたかったと思うんですよ。三重県の他チームはそれまで『城先生がいるから勝てない』と思っていて、『城先生がいなくなったから勝てる』という意識に変わっていたんです。その変化を僕はまったく感じ取れていなかった。周りがウチに対して目つきが変わり始めていたのに、僕は勝てると楽観視していた。しかもブラジルから帰って来て、チームをガラッと変えてしまったんです。ブラジルサッカーが頭にあって、3バックを4バックに変えて、SBをガンガン上がらせるスタイルにしたら、カウンターでやられました」

--現実を見たんですね。
「そうなんです。しかも選手の勧誘に行ったら、和波智広(元・札幌など)、米山大輔(元・C大阪など)などのほとんどの有望な中学生が暁に行く、と。『おいおい選手も来なくなったぞ、どうなっているんだ!?』ってね(笑)。ただ、その翌年(1996年度)はウチにも良い選手が残っていたんです。関本恒一(元・鳥栖)、鈴村拓也(元・神戸、現・デウソン神戸、フットサル日本代表)がいた。『これはラッキーだぞ』と言い聞かせながら、新人大会、総体、選手権と三重で勝てました。でもその翌年(1997年度)、坪井慶介(現・浦和)の年に全国へ行けなかった。そして、次の年(1998年度)が勝負でした。ウチは1、2年生ばかりで、暁には(和波や米山など)優秀な3年生がそろう代だった。でも、その年にウチがやっぱり県内のタイトルをすべて獲ったんです。それでようやく『やっぱり四中工や』と、選手の流出に歯止めがかかりました」

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