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[1112号]EGちょい出し:その名を刻んだ男たち2011 Vol.7 菅原智(東京V)/聞き手・田中直希()

2012/1/27

●「生き残るためにガムシャラに走り続けて、気が付いたらこの年までサッカーができていた」
「隣では日本リーグで戦うプロのチームが練習していた」
--現役生活を終えてみての心境は?
「幸いにも選手を辞める1年前から『引退してもクラブに残って指導者として頑張ってほしい』とヴェルディから言われていました。突然、引退が訪れたわけではありません。2010年からいろいろ考えていました。2011年も兼任コーチとしてやっていましたし。もちろん実際に辞めてみると、体やメンタル的に(現役時代との)違いはあります。でも引き続き同じクラブでサッカーを続けられる。恵まれていると思っています。選手ではありませんが、指導者としての新たなスタートなので、特に気がゆるんでいることもなく、違った緊張感の中で今年をスタートできています」

--昨季のコーチ兼任という立場は複雑ではなかったですか?
「そんなことはないですよ。ケツさん(川勝監督)をはじめ、クラブの方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。サッカーを辞めなくてはいけなくなり、新たな仕事を探さなければならない苦しい状況の選手は何百人といます。その中でも、“先”を考えてもらえたというのは幸せなこと。いまは、クラブが大きくなっていかなければならない時期です。みんな大変な思いをしながら、そのために頑張っている。クラブの将来、自分の将来のために、精一杯やらないといけないという気持ちです」

--ジュニアユース時代から読売サッカークラブ(東京Vの前身)でプレーされ、多くのタイトルも獲得されています。
「いまとはまったく異なりますね。大会があったとしても、日産、ガンバ、三菱養和、ウチ、それといくつかくらい。いまほど底辺が広がっていなかった。もう20年前になりますしね。読売サッカークラブは当時でもほかにはない恵まれた環境にある育成組織でした。施設があり、指導者がいて、隣では日本リーグで戦うプロのチームが練習していました。身近にいるプロに憧れながら、練習に取り組める素晴らしい環境です。あのころのことは、いまでも鮮明に覚えています。『うまいサッカーをやると同時に、勝つ。ヴェルディは勝たなければならない』という意識でみんなやっていました。ユースに上がったときにJリーグができて、川勝さんと森さん(栄次/現・ジュニアユース監督)が入って来られました。川勝さんとは当時からのお付き合いですから、長いですね。二人からは、プロのレベルを基準にしたトレーニングを受けました。川勝さんには何度もこのことを話したんですが、プロというものを一番意識した刺激的な3年間でした」

--当時はちょうど“Jリーグブーム”のころです。印象は?
「高2のときにヴェルディができました。(1992、3年・Jリーグ発足前後の)あのころはちょっと異様でした。ただ僕らは、読売サッカークラブの時代からやっていたので、『すげえなこの騒ぎ』という感覚でもなかった。常にチャンピオン争いをしている人たちが近くにいたわけですから。トップチームの練習は、ユースの時間とズレているので、あまり見ることはできなかったのですが、たまに見ると本当に刺激的でした。『この中でいつか自分もやりたい。そのためには日々のトレーニングだ』と、以前あった土のグラウンドで、必死にやっていました」

--トップ昇格は1995年。当時のトップチームの監督は、ネルシーニョさん(現・柏監督)でした。
「当時はトップチームとサテライトがハッキリと分かれていました。トレーニングすら一緒にできないんです。6人くらいがユースから昇格したんですが、そこからトップに行けたのは2、3人。いまよりも厳しかったですね。それに、たとえトップに上がっても、紅白戦に出られないのは当たり前でしたから」

--ネルシーニョ監督は選手間の競争をうまく引き出しますよね。
「あのころはプロ1年目なので、何も分からないままやっていながらも、さまざまなことを勉強し、肌で感じられた時期でした。だからこそ、いまこうやっていられるのかなと思います。ネルシーニョさんの下ではある程度メンバーのベースは決まっているのですが、その上で監督は全選手を観察しています。出られない選手ともコミュニケーションを取る。『全員にチャンスがあるよ』という環境を作ります。ただ、チャンスを与えられない選手がほとんどです。でも監督は全員をしっかり見ているので、普段のトレーニングからしっかりやらなければいけない。そういう意識が選手たちに植え付けられる。けが人や出場停止が重なって、自分がデビューすることになったのも1年目でした。当時、サテライトで練習をしながら、たまにトップの紅白戦にも出させてもらっていたんです。試合の1週間くらい前に監督から『出番があるかもしれない。しっかり準備をしておいてくれ』と言われて。そうしたら、メンバーに選ばれた。ボランチでの先発がいきなり訪れたんです。まさかのデビューでした(95年7月19日サントリーシリーズ第25節・浦和戦)」

--その試合でゴールを奪いました。
「そのときは連勝中でチームにも良い雰囲気がありました。一人くらいメンバーが代わっても、機能しているチームは、大丈夫なんですよ。あのゴールは、ちゃんと頑張っていればチャンスが来るということをみんなに示せたものだったと思います。そういう環境をこれからは自分が指導者として作っていきたい。僕らが選手を見る以上に、選手は指導者を見ています。見られている存在というのを意識して、一人ひとりの選手とコミュニケーションを取って信頼関係を築いていけるようにしないといけない」

「勢いと協力してくれた方々に身を任せてブラジルへ行ってしまった」

--1999年、ブラジルのサントスへの移籍の経緯は?
「1998年限りでヴェルディをアウト(契約満了)になってしまいました。次にどうしようかお世話になっていた方たちに相談させてもらったとき、96年にヴェルディの監督だったレオン(現・サンパウロ監督)にお願いしてブラジルに行ってくれば?ということを言われたんです。すぐレオンに話をしました。そうしたら『来いよ』と。ブラジルへ行ってもすぐに試合に出られるわけでもないし、ましてや僕のプレースタイルも、うまさでやっていくものではない。後々考えると、よく行ったなと思います。勢いと周りで協力してくれた方々に身を任せて行ってしまいました。行ったら行ったで大変だったんですけどね。サントスに入ったからと言って、すぐにうまくなるわけではない。それよりサッカー以外の部分で、ブラジル特有の感情表現の豊かさ、人間関係についてなど刺激を受けることが多かった。たくさんの友達ができて良い人脈を築けました。学んだことは多かったです」

--菅原さんはポルトガル語が堪能ですよね?
「堪能ではないですよ。そのとき覚えたものくらいです。その気になれば意外と人間ってできるんですよ。コミュニケーションを取りたかったので、どうしても言葉を覚えたかった。毎日、チームメートと過ごす中で、見よう見まねで自分のものにしていった感じです」

--もっとブラジルにいたいという思いはなかったのですか?
「ありました。生活が楽しかったですし、ブラジルの良いところについても理解していましたから。でも、契約事ですから。日本以上にシビアな国ですからね。『来年オマエはいらない。家族もいるんだから早く日本に帰れ』と、シーズンが終わる1カ月前から言われたり。最後のほうには『グラウンドに入らなくていい』、『練習に出なくていい』と言われていましたからね。でも、それが当たり前なんですよ。彼らはジュニアのころから、そういう環境でやっている。そこでどうやって生き残るか、という中で。日本の環境がどれだけ恵まれているかということです」

--12月に帰国し、翌2000年からは神戸でプレーします。
「当時、川勝さんが神戸の監督を務めていました。そこでまた『お願いします』と言いに行きました。川勝監督に拾ってもらったんです」

--神戸では、その後6年間プレーしました。
「毎年、残留争いをしていました。その中でどうやってチームが一つになるのか。グラウンド外でのコミュニケーションがすごく大事だなと思ったのが神戸時代でした。大変なこともありましたけど、楽しかった思い出が詰まっています。チームメートはみんな仲が良かったですし、それに加えて神戸という街も大好き。神戸に住んだことのある人は同じだと思いますが、いまでも住みたい街です」

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